
昭和大学小児外科の国際医療協力
初代 昭和大学小児外科教授 岡松孝男
昭和大学小児外科の国際医療支援の始まりは古く
1980年(昭和
55年)にさかのぼります。あの悲惨なベトナム戦争が終結してすぐに隣のカンボジアにおいてはクメール・ルージュ(紅いクメール)派を率いるポル・ポト氏が政権を握り極端な原始共産主義により全ての知識人を否定し反対するものは全て虐殺すると言う暴政を行った結果これを逃れようと数百万人が難民となりカンボジア・タイ国境に押し寄せタイ国内に逃げ込みました。
1979年には当時の国連難民対策高等弁務官であった緒方貞子氏が現地を視察し国連として難民救済を各国に呼びかけました。日本もこの呼びかけに応じて経済的支援のみならず医療団派遣など人的支援も行うようになりました。
日本政府は JICA( Japan International CooperationAgency: 日本国際協力事業団)を通じて全国の国公立病院、医科大学などに呼びかけ医療チームを募集しこれを日本医療チーム( Japan Medical Team、 JMT)として現地に派遣しました。
昭和大学はこの要請にいち早く応じ私(外科・小児外科)を団長とし他に医師 2名(外科、内科)レントゲン技師、検査技師各 1名、看護師 12名の救援医療団を 1980年 9月から 12月まで派遣しました。このことがきっかけとなり日本でも世界の災害、紛争などでいち早く援助ができるように国際緊急援助隊医療チーム( JMTDR)が結成されるようになりました。
戦場を逃げ回り筆舌に尽くし難い苦難を舐めながらようやく国境にたどり着いた難民たちのための医療は、平和な日本国内で経験してきたような自分の専門分野のみを設備の整った病院で行う医療とは全く違うもので医療の原点とも言うべきものでした。
タイ・カンボジア国境付近には7ヶ所の難民収容所がありましたが日本の医療チームは、そのうちカオイダン収容所とサケオ収容所の支援を行いました。カオイダン収容所は国境のすぐ近くで収容人員は十数万人が収容されており、サケオ収容所は国境から数十キロ離れており日本医療チームの宿舎はこの近くに設置されておりました。
世界各国からの医療団は国連の難民対策高等弁務官事務所( UNHCR)の医務官を中心に各国のチームごとにそれぞれ病棟外来を受け持ち医務官がいわば院長役で各チームの調整を図るような組織でした。世界各国のチームの医師の中で小児外科という特殊な部門の医師は私一人でしたので、私の着任後は小児(新生児を含む)の地雷や銃創などの外傷はもちろん外科的疾患は全て私のところに回されるようになりました。戦場のような国境の難民収容所で新生児などと思いますが、数十万人の難民収容所では毎日のように出産もあり一晩に2〜 30の出産がある時もありました。そのような中で内臓に異常のある赤ちゃんはもちろん腫瘍や兎唇、手足の変形、異常といった整形・形成外科的疾患なども見られました。
しかし新生児内臓異常では鎖肛のような外見でわかる疾患以外の小腸閉鎖症や食道閉鎖症などは早期に診断・治療されることはありませんでした。 虫垂炎や鼠蹊ヘルニアといった一般的な疾患でも日本国内であれば 40年前の当時でも特に危険のない通常手術とされておりましたが、鼠蹊ヘルニアや虫垂炎でも発症から数週間〜数ヶ月(ヘルニアでは何年も)を経ているものも多く何時間も要する大手術となることが多くありました。
平和な日本国内では経験することがない地雷や砲弾による外傷、銃創などのほかマラリヤなど熱帯特有の風土病、毒蛇、サソリなど多くの経験をしましたが、現地の医師、他国の経験豊かな医師、看護師たちとの密接な交流によってなんとか満足な治療が行えるようになり、緊急国際医療支援においても他国との連携が重要であることを学びました。
カンボジア難民救助から帰国して間もなく、今度はエジプト共和国のカイロ大学(小池百合子都知事の出身大学として有名)医学部小児病院の医療支援と小児外科分野の確立のため JAICAを通じて外務省からの依頼を受け 1983年から 2003年までの20年間にわたってされカイロ大学小児病院の医療・技術支援と小児外科分野の確立に尽力いたしてきました。これは先の難民救済医療や災害時の医療支援と全く異なり、開発途上国に最新医療システムを確立すると言う非常に難しい仕事でした。我が国で誰でもが病院を訪れれば先端の医療が当たり前のように受けられますが、近代設備の病院が普通に運営されるためには病院に働く全ての人が一定以上の「教育」を受けていることが前提であることに多くの人は気がついておりません。
例えば消毒係の人が字を読めなかったために消毒器の「故障中」の札が読めずそのまま清潔にすべき手術器具を入れスイッチを押して規程の時間で取り出し手術室に搬入すると言ったことが行われたり、給食室に最新の調理器具を入れたところ炊事係が誰も使用法を読めず上司が基本的調理方と食事のレシピをわかりやすく説明したところ数ヶ月3食とも同じメニューが提供されたと言う、笑うに笑えないようなことが起こったりしました。このようなことを一つ一つ辛抱強く各部門と話し合いながら解決していくことが非常に大切です。さらに医師・看護師・各部門の技師との連携は近代医学にとって極めて重要なことですが、それぞれの間に身分や階級の格差がある場合、チームワークをとることが非常に難しくなります。それこそ各部門の上司達と膝づめの談判で何事も患者さんのため協力し合うことの大切さをわかってもらうのには 5年もの時間が必要でした。それでも医学部長、教育大臣などに次第に理解を深めていただきだんだん「 one for all, all for one」の精神が理解され医師・看護師・技師のみならず病院の上から下まで協力しあい、お互いにわからないことはすぐ聞いたり相談できるようになっていくと、病院の治療成績も上昇し街の評判もすこぶる良いものとなって今では誰でもカイロ市で「ジャパニーズホスピタル」といえばすぐわかる病院となっており、先のイラク戦争で荒れたイランのバクダット小児病院の復興支援にはカイロ大小児病院の医療班が活躍し、日本でも研修を受けた小児外科医がドイツの大学の教授に就任するまでに発展しております。
1997年からは国際開発救援財団( FIDR: Foundation for International Development/Relief :ヤマザキパン)の依頼を受けポルポト 政権で徹底的に破壊されたカンボジアの小児外科医療の再建を行うことになりました。あらゆる知識人を排除して反対するものは皆処刑されてしまったカンボジアで小児外科の再建は困難を極めましたが、昭和大学小児外科や日本小児外科学会のご尽力のみならず世界中の小児外科医達の協力を得て、20年のちの今はたった3人のカンボジアの若手外科医と始めた小児外科も 100人を越す小児外科医を養成し小児麻酔科の分野も確立、カンボジア小児外科学会、小児麻酔科学会を諸外国から医師を招いて年一回は開催するまでに成長しております。
日本政府は JICA( Japan International CooperationAgency: 日本国際協力事業団)を通じて全国の国公立病院、医科大学などに呼びかけ医療チームを募集しこれを日本医療チーム( Japan Medical Team、 JMT)として現地に派遣しました。
昭和大学はこの要請にいち早く応じ私(外科・小児外科)を団長とし他に医師 2名(外科、内科)レントゲン技師、検査技師各 1名、看護師 12名の救援医療団を 1980年 9月から 12月まで派遣しました。このことがきっかけとなり日本でも世界の災害、紛争などでいち早く援助ができるように国際緊急援助隊医療チーム( JMTDR)が結成されるようになりました。

戦場を逃げ回り筆舌に尽くし難い苦難を舐めながらようやく国境にたどり着いた難民たちのための医療は、平和な日本国内で経験してきたような自分の専門分野のみを設備の整った病院で行う医療とは全く違うもので医療の原点とも言うべきものでした。
タイ・カンボジア国境付近には7ヶ所の難民収容所がありましたが日本の医療チームは、そのうちカオイダン収容所とサケオ収容所の支援を行いました。カオイダン収容所は国境のすぐ近くで収容人員は十数万人が収容されており、サケオ収容所は国境から数十キロ離れており日本医療チームの宿舎はこの近くに設置されておりました。
世界各国からの医療団は国連の難民対策高等弁務官事務所( UNHCR)の医務官を中心に各国のチームごとにそれぞれ病棟外来を受け持ち医務官がいわば院長役で各チームの調整を図るような組織でした。世界各国のチームの医師の中で小児外科という特殊な部門の医師は私一人でしたので、私の着任後は小児(新生児を含む)の地雷や銃創などの外傷はもちろん外科的疾患は全て私のところに回されるようになりました。戦場のような国境の難民収容所で新生児などと思いますが、数十万人の難民収容所では毎日のように出産もあり一晩に2〜 30の出産がある時もありました。そのような中で内臓に異常のある赤ちゃんはもちろん腫瘍や兎唇、手足の変形、異常といった整形・形成外科的疾患なども見られました。

しかし新生児内臓異常では鎖肛のような外見でわかる疾患以外の小腸閉鎖症や食道閉鎖症などは早期に診断・治療されることはありませんでした。 虫垂炎や鼠蹊ヘルニアといった一般的な疾患でも日本国内であれば 40年前の当時でも特に危険のない通常手術とされておりましたが、鼠蹊ヘルニアや虫垂炎でも発症から数週間〜数ヶ月(ヘルニアでは何年も)を経ているものも多く何時間も要する大手術となることが多くありました。
平和な日本国内では経験することがない地雷や砲弾による外傷、銃創などのほかマラリヤなど熱帯特有の風土病、毒蛇、サソリなど多くの経験をしましたが、現地の医師、他国の経験豊かな医師、看護師たちとの密接な交流によってなんとか満足な治療が行えるようになり、緊急国際医療支援においても他国との連携が重要であることを学びました。
カンボジア難民救助から帰国して間もなく、今度はエジプト共和国のカイロ大学(小池百合子都知事の出身大学として有名)医学部小児病院の医療支援と小児外科分野の確立のため JAICAを通じて外務省からの依頼を受け 1983年から 2003年までの20年間にわたってされカイロ大学小児病院の医療・技術支援と小児外科分野の確立に尽力いたしてきました。これは先の難民救済医療や災害時の医療支援と全く異なり、開発途上国に最新医療システムを確立すると言う非常に難しい仕事でした。我が国で誰でもが病院を訪れれば先端の医療が当たり前のように受けられますが、近代設備の病院が普通に運営されるためには病院に働く全ての人が一定以上の「教育」を受けていることが前提であることに多くの人は気がついておりません。

例えば消毒係の人が字を読めなかったために消毒器の「故障中」の札が読めずそのまま清潔にすべき手術器具を入れスイッチを押して規程の時間で取り出し手術室に搬入すると言ったことが行われたり、給食室に最新の調理器具を入れたところ炊事係が誰も使用法を読めず上司が基本的調理方と食事のレシピをわかりやすく説明したところ数ヶ月3食とも同じメニューが提供されたと言う、笑うに笑えないようなことが起こったりしました。このようなことを一つ一つ辛抱強く各部門と話し合いながら解決していくことが非常に大切です。さらに医師・看護師・各部門の技師との連携は近代医学にとって極めて重要なことですが、それぞれの間に身分や階級の格差がある場合、チームワークをとることが非常に難しくなります。それこそ各部門の上司達と膝づめの談判で何事も患者さんのため協力し合うことの大切さをわかってもらうのには 5年もの時間が必要でした。それでも医学部長、教育大臣などに次第に理解を深めていただきだんだん「 one for all, all for one」の精神が理解され医師・看護師・技師のみならず病院の上から下まで協力しあい、お互いにわからないことはすぐ聞いたり相談できるようになっていくと、病院の治療成績も上昇し街の評判もすこぶる良いものとなって今では誰でもカイロ市で「ジャパニーズホスピタル」といえばすぐわかる病院となっており、先のイラク戦争で荒れたイランのバクダット小児病院の復興支援にはカイロ大小児病院の医療班が活躍し、日本でも研修を受けた小児外科医がドイツの大学の教授に就任するまでに発展しております。
1997年からは国際開発救援財団( FIDR: Foundation for International Development/Relief :ヤマザキパン)の依頼を受けポルポト 政権で徹底的に破壊されたカンボジアの小児外科医療の再建を行うことになりました。あらゆる知識人を排除して反対するものは皆処刑されてしまったカンボジアで小児外科の再建は困難を極めましたが、昭和大学小児外科や日本小児外科学会のご尽力のみならず世界中の小児外科医達の協力を得て、20年のちの今はたった3人のカンボジアの若手外科医と始めた小児外科も 100人を越す小児外科医を養成し小児麻酔科の分野も確立、カンボジア小児外科学会、小児麻酔科学会を諸外国から医師を招いて年一回は開催するまでに成長しております。

昭和大学小児外科の国際医療協力
昭和大学小児外科は今後とも海外の小児外科医療を支援していきます。





昭和大学病院小児外科 診察時間のご案内
月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 | |
午前 | 医局員 | 田山 | 佐藤 | 渡井 | 第1:佐藤・土岐彰(再) | |
第2:田山 | ||||||
午後 | 渡井 | 大澤 | 中山 | 第3:大澤・中山(再) 午後:渡井 | ||
第4:中山 第5:大澤 |
・英語での受診を希望される方は佐藤准教授外来を御受診ください。
(水曜日午前外来・第1週土曜日)
2021年10月より24MHz/33MHzの超音波の機械が小児外科外来に導入されました。現時点では本邦で最も高精細の画像診断が可能です
2022年11月 胃食道逆流症検査機器が更新されました
・昭和大学病院は特定機能病院ですので原則紹介予約制となります。紹介状をかかりつけ医療機関にご依頼ください。紹介状をお持ちでない場合には選定療養費の支払いが必要となります。
・緊急手術等にて外来予定は代診・休診となることがございますので確認ください。
・時間外での緊急対応は救急外来にお問い合わせください。